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市議団の実績

教育基本法の「改正」を求める意見書採択は、

大阪市会に重大な汚点を残すもの

日本共産党の山中智子議員が本会議で討論

山中智子市会議員

2004年12月17日

12月17日の大阪市議会本会議で、日本共産党の山中智子議員は、与党が提案した教育基本法の改悪を事実上認める意見書に反対する討論をおこないました。以下全文 

私は、日本共産党大阪市会議員団を代表して、自民・民主・公明各党提出の「教育基本法に関して国民的議論を求める意見書案」に反対し、日本共産党が提出しています「教育基本法の改悪に反対する意見書案」の採択を求める討論を行います。

昨年3月、中央教育審議会が「教育基本法を改正する必要がある」という答申を文部科学大臣に提出し、今年9月、文部科学省は、「与党教育基本法改正に関する協議会」でかっこつき「改正」の法案づくりをすすめることを了承し、来年の通常国会をめざし、準備が急ピッチですすめられています。与党提出の意見書案は、表題こそ「国民的議論を求める」としているものの、その主旨は、中央教育審議会の答申や与党協議会の中間報告とまったく同じものであり、「改正」を求めるものにほかなりません。

この意見書案は、社会の倫理観や使命感の喪失、教育における、規範意識・道徳心の低下などを指摘し、それに対処するために、基本法に、道徳教育の充実、家庭の意義、家庭教育の重要性などを規定するべきだとしています。

たしかに、いま、子どもと教育をどう守るのかは、国民的な大きな課題となっています。しかし、法律に、道徳心や家庭の意義を規定したら、それが解決するのでしょうか。私は、冗談ではないと言いたいのです。金権汚職事件が後を絶たない汚れた政治、財政難を理由に、弱者のための施策を次々切り捨てる冷たい政治、こんなものにさらされつづけている子どもたちに、言葉で、道徳心や規範意識を教えることが、どれだけの意味をもつのでしょうか。また、リストラ・失業・倒産の嵐のもと、金策、家計のやりくりにおわれている親たちや、過労死をうみだす長時間・過密労働で、家族で食卓を囲むこともできない働き方をしている親たちに、家庭の重要さを法でうたうことがどれだけの力になるのでしょうか。

さらに、日本の教育は、国連子どもの権利委員会から、「過度に競争的な教育制度によるストレスのため、子どもたちの発達がゆがみにさらされている」と厳しい批判を受け、二度にわたってその改善を求められています。日の丸・君が代の強制など、管理と統制を強める一方、欧米諸国では例を見ない40人学級制など劣悪な教育条件が続いています。文部科学省が提唱し、本市で今年度から導入された習熟度別指導のもとで、「私は成績が悪いから、担任の先生に教えてもらわれへん」とつぶやいた子どもがいます。こんな嘆きを聞いた親御さんや先生の胸の痛みの大きさははかりしれません。こんなひどい教育行政や、自民党政治がつくりだした政治と経済のゆがみを正そうともせず、こともあろうに、悪いのは教育基本法だ、などという暴論をどうして認めることができるでしょうか。

内閣総理大臣の私的諮問機関として設置され基本法改正の答申を出した「教育改革国民会議」のメンバーである浜田宏リコー会長は、「初めて教育基本法を読んで、すばらしいと思いました。なぜかえる必要があるのでしょうか。むしろ基本法に書いてある目的を実現できなかったことが問題です」と語っています。浜田氏だけではありません。「改正」論議のなかで、あらためて、あるいは、初めて基本法を読んだ多くの人たちが、その教育観や人間観の新しさと深さに感動の声をあげるとともに、現在の子どもと教育の危機の原因は、基本法の精神が生かされず、ふみにじられてきたことにこそあると気づいています。まさに、基本法「改正」には道理も根拠もないのです。

それなのに、なぜ、いま、「改正」なのでしょうか。教育とは、一人ひとりの子どもの個性を大切にし、無限の可能性を引き出すためにあり、行政や国家が特定の人間像を押しつけるものであってはなりません。だからこそ、基本法は、その第10条1項で「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任をもって行われるべきものである」と定め、つづく第2項で、教育行政のやるべきことは、「必要な諸条件の整備確立」であるとしています。戦前の教育への反省に立ち、「教育」そのものと、「教育行政」をきちんと分離して、教育内容への、行政やさまざまな権力の介入・支配・統制を禁じているのです。

ところが、今回の「改正」作業では、この、「教育は不当な支配に服することなく」という条文に「行政」という言葉を入れて、「教育行政は、不当な支配に服することなく」に書き換えようとしています。今ほど、子どもと教育をめぐって国民的な議論と共同が必要な時はないのに、これでは、たとえば、保護者や教員、市民などの教育行政への批判を、「不当な支配」だとして封ずることにもなりかねません。行政への制約ではなく、国民への制約に180度すりかわってしまう、まさしく詐欺的な改悪ではありませんか。この真のねらいはなんなのか。中教審の答申は「21世紀を切り拓く心豊かでたくましい日本人の育成をめざす」ために「基本法を改正する必要がある」としています。一見、もっともらしい話かもしれません。しかし、「たくましい日本人の育成をめざす」という言葉に、競争にうちかてる強い人間をよしとし、それに耐えられない子どもを切り捨てようとする怖さを感じるのは私だけではありません。

教育行政を教育の上におき、国家や行政が求める人間をつくるための教育を行う、こんな危険な意図を絶対に認めるわけにはいきません。

教育基本法は、その前文で「われらは、さきに、日本国憲法を制定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」と高らかに宣言しています。2000万人を超えるアジアの人々、300万人の日本国民の命を奪い、大阪をふくめて日本の各地を焼け野が原にした第2次世界大戦の犠牲の上に立って、私たちは、「二度と戦争はしない。どんなもめごとも話し合いで解決をする」と誓った世界に誇る平和憲法を手にしました。教育基本法は、この憲法の教育版として制定されたのです。当時、基本法制定のために設置された教育刷新委員会の議事録を見ると、たとえば、「誤りを二度と繰り返さないような保障を感じしめるような言葉が、やはり欲しい。憲法に示されたような、戦争を放棄し、人類の平和を求めるというようなことが、やはり教育の理念の中に置かれてもよいのではないだろうか。教育が、軍国主義や極端な国家主義に二度と利用されないという決心を示す言葉を欲しいと思うので」という発言など、大戦の惨禍をくぐった人たちの慟哭、痛切な反省、そして、再出発にこめた熱い思いと決意が伝わってきます。

戦争につきすすんだことへの反省から憲法が生まれ、教育が戦争に利用されたことへの反省から、教育基本法が生まれたのです。まさに、憲法と教育基本法は一体のものであり、憲法の理想を、教育の力と、そのもとに育つ新しい主権者に託す、これが基本法を貫く精神です。ところが、今回の「改正」作業の土台となっている与党協議会の中間報告は、前文から「憲法」の文言そのものを削除する意図をにじませています。このことは、今回の基本法「改正」のほんとうのねらいが、憲法改悪と、戦争するための人づくりにあることを物語っているのではないでしょうか。

基本法制定にあたった南原繁元東大総長は、「今後いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう。なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせきとめることに等しい」と語りました。歴史の流れをせきとめ、いつか来た道、戦争への道を歩むことは許されません。

いま、日本弁護士会や真宗大谷派が「改正」に反対する決議をあげ、多くの教育学者、作家、芸術家、宗教者が相次いで反対の意志を表明しています。全国の地方議会をみても、意見書をめぐる真剣な論議が行われた結果、「改正」では教育危機は解決しないとの共通認識に立ち、「教育基本法の理念を生かそう」との意見書を上げた議会は、306にのぼり、「改正」を求める意見書をあげた議会をはるかに凌駕しています。このようななかで、「改正」を求めるような意見書が採択されることは、本市会に重大な汚点を残すものです。どうか、歴史の後戻りを許さず、平和と民主主義を守り、子どもと教育の危機を打開していくために、基本法改悪に反対する意見書案にご賛同いただきますよう、心から訴え、討論といたします。