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市議団の実績

再議された「公募校長に関する学校活性化条例の改正」に対する

井上議員の再議決を求める討論

井上ひろし市会議員

2014年8月11日


 私は、日本共産党大阪市会議員団を代表して、再議に付された議員提出議案第22号、「大阪市立学校活性化条例の一部を改正する条例案」について、再度議決すべきとの立場から討論を行ないます。

 市長は、公募校長の相次ぐ不祥事について、制度の問題でなく「採用上」の問題だとしておりますが、いったいどれだけの不祥事があったのでしょうか。2013年度採用の11人の内、実に6人にも上っているのであります。

 これは、もはや採用上の問題では無く、制度上の問題に根ざしているのであります。

 また市長は、外部人材の登用のメリットをるる述べて、再議の理由にしていますが、そもそも本条例案は、「公募により行う事ができる」として、「原則公募」の原則という部分を否定しているのであります。

 よって、再議には全く根拠が無い事をまず冒頭に申し上げておきます。

 言うまでもなく教育の現場では、一人一人のこども達に寄り添うとともに、学校が抱える困難な課題には、その解決に向け関係者が一丸となって取り組まなければなりません。今日の学校現場は、教員集団の高度なチームワークが求められているのであり、その要となるのがまさに学校長であります。

 校長公募の目的として市長は、学校に多様な価値観を取り入れ民間等で培われたマネジメント能力を発揮してもらうことであると繰り返しますが、教員生活を通じて蓄積された経験に基づく「価値観」や、教育の専門家として培ってきた「能力」以上の「価値観」や「能力」とは一体何なのでしょうか。

 公募校長の一連の不祥事を受け、試験をもっと厳しいものにするからと「採用」の問題であるかのように事の本質をすり替えていますが、試験を厳しくすればするほど市長の価値観により近い人達が寄せ集められるだけなのであり、学校の要となるべき校長としての資質や能力の有無を面接や筆記試験ではかろうとすることは、あまりに軽はずみで不見識だと言わなければなりません。

 そもそも学校現場に、公募などという制度が必要とされているのでしょうか。

 校長職は、教員生活の集大成とも言える役職ですが、教頭を志願する教員が激減していることは、教育行政が「教育者の育成」という重要な責務を放棄することへの警鐘と受けとめるべきなのであります。

 結局校長公募とは、市長の「イエスマン」としてのマネジメント能力を有した人材を学校に送り込むための制度なのであり、教育の自由や自主性、専門性を著しく歪め、公教育の根本的否定を特徴としていることが、浮かび上がってきているのです。

 現場の要求に反し何か変わった制度を持ち込んで耳目を引こうとしたり、公募制度を無理矢理押し込むなどの政治介入を許せば、学校は不当に支配され教育の条理が歪められてしまうのであり、子ども達へのしわ寄せは計り知れません。

 教育の政治的中立とは教育実践の地道な積み重ねを支援し、教育条件の整備に撤することなのであり、本市におけるような教育への政治介入は、憲法と教育基本法によって厳しくしりぞけられなければならないのであります。

 また、校長は教頭とともに学校責任者として学校現場に関わる全ての事に目配りをし、対応するとともに、子ども達や保護者との関係、地域との関係を構築していくという職責を担っています。したがって校長は、基本的にフオローされる位置にあるのではなく、全ての面においてリーダーシップを発揮する立場にあるのであり、それだけ高い能力と豊富な経験が求められているのです。ところが、退職校長を採用し公募校長をフォローする制度が、一体のものとして取り入れられており、これ自体「制度」が問題であることを自ら語っているに等しいのではないでしょうか。

 この期に及んで、「制度」の問題ではなく「採用」の問題だとの主張を続けることは、市民感覚と大きくかけ離れているのであり、現実から目をそらした独り善がりでしかありません。

 自らの意見を絶対的に正しいものとして自らの意見を押し通そうとするのではなく、学校関係者の意見や市民の声に対して、もっと謙虚な姿勢を示すべきであり、「教育は強制」などという極端にいびつな思想をこそ改めるべきです。

 大阪の教育の未来のためにも、「大阪市立学校活性化条例の一部を改正する条例案」は、再度議決すべきであることを申し上げ、討論と致します。