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日本共産党 稲森豊市会議員に聞く 中之島・中央公会堂を甦らせた力 |
11月1日おこなわれた中央公会堂保存再生工事完成記念式典に招かれて参加しました。大阪市長をはじめ主催者や来賓のあいさつでも異口同音に、中央公会堂が大阪のシンボルとして甦ったと、喜びと期待が語られました。 この総事業費は110億円、新築に要する費用以上をかけ、最新技術を駆使しての再生工事だけに、基礎の総入れ替え、耐震構造の導入、構造部の補強や音響効果、照明設備の更新など、外観の保存以上に力を入れています。 記念コンサートで大阪フィルハーモニー交響楽団が「新世界」を演奏しましたが、残響などまったく気にならず、歴史的景観と合わせ、機能的にも大阪の第一級の集客施設として中央公会堂が甦った喜びを感じた次第です。 同時に、中央公会堂の歴史のひとコマとして、どうしても知ってほしいことがあります。それは、私が大阪市建築局の職員として、また労働組合の役員として働いていた1971年、当時の大島市長が大阪市役所の建て替えとあわせて、中央公会堂の改築という中之島再開発構想を打ち出した時のことです。 これにたいし、市民の間で中之島の景観保存運動が起き、「中之島を守る会」も生まれました。「市民の幸せなしに自治体労働者の幸せなし」という方針を掲げていた私たちの労働組合支部は、「市民は中之島公会堂をつぶせということまで市長に委ねていない。どうしてもやるというなら、住民投票で是非を問うべきだ」と、「中之島を守る会」とも共同の立場で中央公会堂の保存を主張しました。 ところが、局幹部は「市の方針に従わないような職員は、民間企業であれば企業破壊者のようなもの」などと暴言を吐き、労組役員に陰に陽に圧力をかけ、労組の転覆や昇任・昇格差別までやってきたのです。 幸い、74年に日銀の保存が決まり、府立図書館が重要文化財に指定されるなど、中之島の景観保存の流れが強まる中、大阪市もついに88年、中央公会堂の永久保存を決め、大阪市の主要な「集客施設」のlつと位置づけ、今回の改修に至ったのです。 その後、議員となった私は最初の大阪市会決算委員会(1996年)の質問で、「中之島を守れといった職員は企業破壊者ではなく、先見性のある中央公会堂の恩人ではないか」とのべ、中之島を守れといった人たちが、同期の者が課長、部長にまで昇進しているのに、いまだにヒラ職員にとどまっているなどの差別の実態を示し、磯村市長に不当な差別人事の改善を求めました。市長は名誉回復を約束し、その後、その人たちも課長級へと昇任しました。 こうした経緯を振り返って感じるのは、大阪市を本当に愛する勇気ある職員がいかに大切かと同時に、人を惹きつけるものとは何かを、市民の目線で考えることの大事さです。今、中之島一帯で市民が絵筆やカメラを向けるのは、建て替えられた市庁舎ではなく、日銀や中央公会堂です。 市長をはじめ市幹部はこのことを肝に銘じなければ、大阪市が掲げる「集客都市構想」は成功しないだろうと、改めて強く感じたところです。 |